昭和51年07月16日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 積極的な信心でなからなければいけないと言う事を、言っとられると思いますよね。あの人に誘われたからならお参りしようかと、まぁ初めはそうかも知れんけれども、段々信心が分かって来たら、その身から打ち込んでの、しかも真の信心をせよと言うておられます。だから真の信心と言う事が目当て眼目。どうでもいわゆる真のおかげを頂かなければいけない。為には真の信心それが目当て。しかも家族勢を揃えてと。
 一人ではどうにも出来ないものでも、大勢かけ声を揃えての信心が、しかも目指すところが真の信心と言う事になると、普通では頂けないおかげも、また成就する頂けるんだという訳です。ですから積極的な信心をしなければいけないという事。昨夜は富久信会で、大変まぁ良い話をみな聞かせてもらいました。その中に私は最後に申しました事でしたけれども、例えば昨日の朝の御理解を皆さん一遍頂いて、それを研修しそして特に商売人の方達ばっかりの集いですから。
 本当にさぁ手形に追われておるとか、借金で首が回らぬとかいう人達もある訳です。ですから昨日の御理解の芯でありますように、富貴自在のおかげを頂かしてもろうたら、おかげだけではなくて、まぁこれは人間幸福の条件の全てが、しかも限りなく頂けれるような信心を。昨日は朝の御理解で聞いて貰いましたから、皆さんが集まって昨日の教話をテ-プで頂きます時に、私がまず茶の間に掛けてある実物を持って来ました。
 今日の御理解はねこのおかげが頂けれる事の全てが、今日のこの御理解の中にあるから、心して皆頂かなければいけませんよと、という訳でしたからもう真剣にやっぱ皆んな頂きます。富貴自在をやはり願い求めておるからです。しかもこの富貴自在のおかげの頂けれる、徳の頂けれる信心とは今朝の御理解に、いうならば結集してある、今朝の御理解が本当に分かってそれが実行される時に、そういうおかげが受けられる。
 という風に申しましてから研修に掛かりました。だから皆さん大変真剣でした。そして私は皆さんの話を一通り聞いてからね、思わせて頂いた事なんですけれども、昨日の朝の御理解のもう全てがね、合楽に御神縁を頂いて信心の稽古を少しさせて頂いておるという程しの人ならばです、こりゃ表現こそ違いです、その意味を十分知っておる人達ばっかりだと言う事です。私これには本当に感心もしましたが、有り難いなぁとも思いました。皆さんでもそうでしょうが。
 昨日の朝の御理解を、わざわざ取り立ててと言う事ではない、それは日ごろ頂いておる、また実際それを信じてもおる、またそれを行じてもおる、また事実そういうおかげも、連続的ではないけれどもです、お繰り合わせの中にある、体験を持っておられる方ばっかりだと言う事です。そこでんなら、そう言う事を知りながら、分かりながらです、どうしてその言うならいつまでも、おかげがぐずぐずしとるかと言う事を、昨日私聞いてもらった訳です。
 んならここはね、いうなら富貴自在の、おかげの頂けれる事を芯に、皆さんに教えて頂いておる一つの、学校のようなもんだと私はね、しかももうこれは大学です。そうでしょう。昨日のお話しの内容に申しましたような信心をです、身につけたらいうなら富貴自在のおかげの頂けれる、世界に出て行く事が出来る。それを同んなじその学校に学ばせて頂きながらです、なんがぁりなんがの信心だから、いつまでたったっちゃ卒業出来んでおるのだと言う事を聞いて頂きました。
 だから今日の御理解で私は、この24節は私は積極的な人に誘われちからどん、なら参ろうかくらいのんなら塩梅にいっちょ参ってみろうか、くらいの事じゃなくてです。合楽の信心のいうなら神髄とでも申しますならです、人間が真実幸せになれれる道、しかもあの世にも持って行け、この世にも残しておれれる程しの信心。それも私が頂いて一つの見本手本と言った様なものを見せながら実証させながら、それも本気に皆さんが打ち込めば誰でもおかげの受けられる。
 だから皆さんがそれを疑う人が合楽に少し信心の稽古に通って来たっ人ならば、疑う人は一人も仲りうと思うです。何故なら私が頂いて見せとるから。それをです言わば知っておると言う事は、そういうならその為には自分の心を、自由自在に有り難く使わせて頂けれる自由無碍の世界、金光大神の世界というのは、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる事。もうそれこそ自分の周囲は拝まねばおれない事で一杯だという事。困った難儀と言った様なものはない。
 それは全部自分を天地の親神様が、氏子に力を与えて下さろうとする、氏子に度胸をつけて下さろうとする働きのみだと言う事、いわゆるそれは全部分かっておるんです。分かっておる自分もまた、ならばなるほど神様の働きには一分一厘間違いない働きと言う事を体験しながらもです、そこんところをやぁっという信心をしないからだと、なんがらなんがらいつかはおかげ頂くだろうと。これではいつまで経ってもその学校が卒業出来んで、落第落第で繰り返し、一生終わったんじゃつまらん話だということ。
 昨日の御理解はそんな御理解だったでしょうがね。私は結局積極的なです、言うならば水も漏らさん程しのおかげ。昨日私はお話ししよる時に頂いたのが、こんなにこんなにしとるところを頂いきました。真ん中をこうやってしとる(手を上げて五本の指と組み合わせて見せて)ここに端に窓ができるですこうごとしとるです。してごらんなさい、ここに窓が出来る。
 昨日の御理解はこうする事だと頂いた。ピシャッとこうね。水も漏らさぬ。言うならここまでは出来とる。こら虎窓のごとなっとる。そして結局この真ん中のちょこっとばっかししかおかげは残りょらん、もう殆どおかげはこの虎窓のごたるところから皆んな抜けしまいよる。だからこれをこうする事なんだ、そうするとピシャッと水も漏らさんような受けもんが出来るんです。これにはねいうならばそれに、その事に専念するということ。いうならば日々の御理解を本気で行じる姿勢を作ると言う事。
 まぁ例えばもう少しこう気長に言うならば、今月の信心の焦点がです、太くなれ太くなれということが焦点だから、どういうことでも一つ太くなろうということなんです。そして皆さんが信じておる事分かっておる事は、確かに太くなりゃおかげも太くなる事をちゃんと皆さんも信じておる事であり、分かっておるんだということですよ合楽の方達は。けれどもそればなんがらなんがらしよったっちゃ、受けたり受けなかったりですから、いつまでたったっちゃ卒業が出来ん。
 卒業した向こうに自由無碍、いうならば富貴自在のおかげの世界があるのです。これはどうでもだから今日の御理解ではないけれどもです、積極的な信心をやぁっとやりあげなきゃ駄目だということです。例えばこれは私の自分の信心をあのう思うてみますとね、本当に難儀困迫という信心が本当な信心を目指してです、いよいよ本気で修行させて頂いたのは三年位です。後はもういうならこの富貴自在のおかげの連続なんです。しかも去年より今年と言う様に広がっていくばっかりのおかげなんです。
 だから三年も本気でその気になって信心したら、そんなにべんべんだらりとですよ。おかげを頂かれんちゅうことはないです。教祖の神様の場合でもそうです。四十二歳の御大患そして神様からいろいろお知らせを頂かれるようになり、その間人が助かるようになっとる間ほんのわずかな期間です。いわゆるやぁっという信心をもうそれに専念されたからです。お互い例えばんなら学校に入学したらです、一生懸命その学問なら学問ということに専念するでしょうが。
 その姿勢をね造らなければいけない。ただ合楽でなら教会で受けておるおかげを、ただほおっというて見とるだけじゃつまらんです、それが銘々の上に頂ける信心、そういういうならばです、富貴自在のおかげの頂けれるここを卒業したら、絶対そういう世界に住み替える事が出来る程しの学校なんですから、学校に行っとると思うてもう少し積極的に、信心を進めなければいけませんと言う様な事を、昨日私最後に話した事でした。
 矢部の古川さんが発表しておりました。もう合楽にご縁を頂いて、去年の十二月もう押し迫った暮れの時に、もうこりゃ倒産と言う様なところになって初めてお願いに来たのが初めてでした。大きな大きなあのうお茶畑を持ち、大きなお茶の工場をやってるんです、お茶製造の工場を。そしてお願いに参りましたらです、いつも十二月に売れる事のない筈が年末にお願いに来てから、一週間ばっかりの間にばたばた売れたんです。もう不思議で不思議でたまらんのです。
 おかげで年は越せて今日までずっと続いて、ついこの頃は近所近隣にないごたる素晴らしいあのう機械を据えました。そん時に末永先生があのうまぁお祓いをしてくれと、信心が分かりませんからね、そういうおかげを頂いたから、お礼のお祭りでもしてくれという、大体そういうことなんでしょう。そうだけれどもそういう機械を据えたから、怪我人でも出らんごとお祓いをしてくれというてお祭りに行きましたが、本当はだからお礼のお祭りと言う事に内容なって、そして帰って来て末永先生が言ってましたが。
 おかげを頂く人は違うというて帰って来ました。もう信心も分かっとる訳でもない、だから昨日私は申しました。こんだけ皆集まっとるいわば、合楽の商売人の方ばっかりの中では、古川さんあんたが一番まぁ幼稚園じゃんねという事でした。けれどもねまぁ幼稚園ではだから優秀な所を通ってるから、小学校に入ったらやっぱり優等生で通らにゃんいかん、中学校に行ったら中学校でもまた優等生でいかにゃいかん。
 同じ大学であってもほんなビリでどん行ったっちゃよか就職はなかち私は。いうなら富貴自在の学校で卒業してもですよね。ピンからキリまであるということ。したらこんな話をしておりました。私がここの富久信会が始まってから、出て来なかった事が二回あったんです。もうそれだけでおかげが違うち私は、だからもう月次祭位しか参って来ません。そすと富久信会だけには大体参って来る。いわゆる二回だけ欠けた。それで今日はどげな事があってっちゃお参りするち、今二番茶で一番忙しいんだそうです。
 けれども今日は忙しいけんお参り出来んかなと思いよった、けれどもその二回を参らなかった事を思い出して、いや今日はもうどげな事があったっちゃ、あのう何もかも放からけしてっちゃ参ろうち腹を決めたらですね、お客さんがそれっきりでピタッと切れたそうです。それからお参りさせて頂いたら、いつも一時間何十分かかるのに一時間余りで着いた、もう信号待ちのところでも青青でここまで来らせて頂いて、時間は少し遅れましたけれども今日おかげを頂いたという話をしてました。
 だからもう古川さんだけではない、あの信心の姿勢というものはそれなんです。本気でやる気にならなきゃならないし、本気でもう何をおいてでもどげな事があったっちゃ、お参りをすると腹を決めたところから、もう神様の働きが始まっとるでしょうが。起きれたならばお参りしよう、忙しくなかったら参ろうではなくて、参ると決めると言う事です。私今日の御理解はあのね、しょうことなしの信心は付け焼き刃の信心だと、その身から打ち込むということは、その心からそれをそう思うということだと思うです。
 忙しいことは神様がご覧の通りだから、今日はご無礼しようと言う様な事ではなくて、忙しかっても参ると決めたら、それを参るという時にはもう既に神様の働きは始まっておる。だからいわば打ち込むということは、有り難いということでありますね。しかも真の信心と仰る。勢を揃えての真の信心をせよと。だから眼目そのものが真の信心でなければいけないということです。
 これも昨日石井喜代司さんが、発表しとりました。お互い夢を持て希望を持て。大きな希望を持たせて頂くと、信心もやはり大きな信心が出来る。希望の希ということは願い望むということだと、希望の希ということは頼み願うということだと。望という望むということは願うという望みを持っとるという願うということだと。と言う様な理屈っぽいお話しをしておりましたけれども、まさしくその通りです。望みの持てれる信心、しかもこれなら絶対おかげが頂けれるという夢を持たなきゃいけません。
 商売繁盛を一生懸命お願いしよるから、いつか必ず商売繁盛になるだろうと言った様な事ではいかんです。同じ商売繁盛をさせて頂いても、さぁ少しおかげを頂いたから、楽になったら人間というものはね、手を出しちゃならんところに手を出したり、いうならば贅沢をしちゃならんところに贅沢をしたりして、頂いたおかげをまた無にするような物を、人間皆んな持っておる。
 そこでただ今修行中と言った様な時、先日から高橋さんの事であの屏山と、耳納山の事を別名屏山という屏風の山と言う、屏風を丁度突き立てたような山だから、屏山という別名がある位。そのお知らせを頂いてです、なぜ神様がおかげを屏風で仕切っておられるかと、そういうスッキリこの氏子にはどれだけのおかげをやっても、もう大丈夫という見極めがついた時、神様がおかげを下さるんだと。
 だからそういう例えおかげを頂いても、神様のお喜び頂けるような、氏子にお取り立て頂きたい、神様にお喜び頂けるような御用の一つもさせて頂きたい、という念願を持ってです、なら商売繁盛なら商売繁盛を願うならばです、必ずおかげになるという確信が生まれてまいりましょう。それもなんがらなんがらの信心じゃなくて、その身から打ち込んで。例えば五年なら五年で卒業できる学校を、十年も十五年もかかって卒業、それでもまだ卒業出来ん。
 一生卒業出来んような、いうならだらぁっとした信心をするようでは駄目だ、それを小さい意味でなら古川さんがね、例えばただ富久信会でね、絶対どんなに忙しかったっちゃ、お客さんを振り切ってからでもお参りしようと腹を決めたら、そこに神様の働きが始まっておると言う様にです、私共が生涯かけてのいうなら願いをです、そういうスキッとした一心発起をさせて頂いて、その身から打ち込んでいくならおかげが頂ける。
 昨日むつやの石井信司郎さんが発表しておるのを聞いて、私は思ったんですけれども、今信司郎さんが発表したこの事は、ここに集まっておる富久信会の皆体験済みであり、知っておる事であり、また自分でも行じておる人達だ、いうならば昨日の朝の御理解はもう一通りいうなら言うだけはマスターしておる、まだ実行が出来とらんというだけだ。先生が言われるとおり、なるほど先生がおかげを現わしていかれる、そういうおかげの頂けれる事実も、時々は体験もしよるという人達ばっかりだなと思いました。
 それで私は信司郎さんに、あんたのその若さでそこんところが分かって、それを目細もうやっていくなら、もう絶対富貴自在のおかげの世界に住める事が出来るばいと言うた事でした。というのは昨日の信行から帰らせ頂いた。店員さんがちょっと出る前から、吉井までお客さんを送って行くという、なら送って来て下さいと言うて送ってもらった。帰ったばってんまだ帰ってきとらん。ひとせん待ったけどまだ帰ってこん。そしてまぁようやくようやくまぁ遅う帰ってきたとこういう。
 だから遅くなるなら遅くなると、あんた一口言うといてくれるとよかとろへと、もうこれは言わんでよかと思うたばってん言うたというのです。太くなれ太くなれと言われるから、もう本当にこれはもう本当にそうですよ。例えばならその店員さんが吉井まで送って行っとるとじゃけん、三十分もすりゃ帰って来るっとじゃろう、こっから信行が終わって帰った時にはもう帰っとるもんと思うて帰った訳です。
 ところが待てども待てども帰ってこん。どことかなら油売っとってもですよ、もう神様はその店員の事を日々願ってあるのですから、お取り次ぎを頂いて。むつや全体の事を願ってあるのですから、親先生の祈りの圏内で起きておる事ですから、もうそれこそ神様は手につけ足につけてです、わざわざ店員を遊ばせてそこに良いお客様が見つかったりです、もうおかげになる元を本気で足につけして、大きくして下さる働きが絶対ありょる時ですよ。だからそれをもう言うたらもうそれでお終いだということです。
 だから太くならなんいかんでしょうが、それがもう分かっておるけれども、まぁ言うた言うた後にあぁ俺はこげなん事では大きなおかげは頂けんなと、まぁ真から思うたとだから真から思いよりゃればえぇと。そりゃ失敗しながらでも分かっておるというのだから、あんた素晴らしいよと言うた。そしてなら皆んなが皆んなをこうして見回したところがです、皆んなも分かっておる面々ばかりだということなんです。ここで言うちゃいけない事は分かっておるけれどもです。
 ここで人間心を使うちゃいけない事は分かっとるけれども、人間心を使う。だから人間心がいわゆる狭ぁくおかげをしてしまう。言うた事がわざわざ神様がおかげを下さろうとしておる、その働きをもう無駄にしてしまう。これではいつまで経っても卒業は出来んと言うのです。だからそこを一通り本当にそうだと言う事が分かったならね、そここれは失敗せんようにね、繰り返してそこに信心の焦点をおいていくならばです、必ず五年なら五年すりゃ卒業が出来て富貴自在のおかげを頂ける。
 そのためにはその身から打ち込んだ、一心発起がなされなければならないということです。例えば喜代司さんあたりが、もう腹は立てんぞと決めたら絶対立てん。だからいうならば富貴自在の何だった、ちょっとした見本のようなもんを頂いておるでしょうが。秋永文男先生が、百万円だけの金なら絶対不自由せんと言う程しの、まぁ富貴自在のちょっとした見本を頂いとるのは、先生がもう二十年もでしょうか、腹を立てんと決めたらそのまま腹を立てん事に打ち込んで、しておるからおかげを受けられるんです。
 もうこりゃもう絶対です。それをねあのうやり抜かなければ駄目です。また失敗しましたとまただから少しは失敗するということも、はっきり神様の有り難さも厳しさも分かる事においてはいいですけれども、これは一つその身から打ち込んだ思い方にならなければいけんと腹を決めたら、もうまず決めなさい。まず決めたら、それからそれをやらしていくことが楽ししゅうなってくる、有り難とうなってくる。希望が持ててくる。
 どうでも言うならば、そういう意味においての合楽大学なら、合楽大学をです皆さんが、小学生の人なら合楽小学でもいいです。だからそれを本当に極めて、卒業の暁を願わしてもらう楽しましてもらう、信心にならなければなりません。そこを何十年たっても同じ堂々回りのところで、いつも腹を立てたり、堂々回りのところでイライラしたりするごたる信心じゃです、その身から打ち込んだということにはなりません。
 真の信心を目指したということにも言えません。この24節は今日は、積極的な信心という風に聞いて頂きました。そして昨日の富久信会からいろいろ、まぁ教えて頂いた事と合わせて聞いて頂きました。そして昨日の朝の皆んなの夢であり、願いである富貴自在のおかげの頂けれる世界というのは、この学校をいわば真面目に、勉強してこの学校を卒業しなければそういう素晴らしい世界に、出て行く事は出来ないということを、聞いて頂きましたね。
   どうぞ。
 
  以下追伸
 昨日日奈久から昨日は6名でしたか見えとりましたが、そのう昨日の御理解を頂いてから、後から発表しとりましたがね。もう本当に何時もの事だけだけれども恐れ入りますと言う事をね。日奈久からずうっと自動車でね、今日のお話のような事をずうとずうっと話してきたと言う。そうしたら今朝の御理解だったからもう驚いてしまってから。と言うからいかに神様がねこれを実行しておかげを受けてくれよと。
 神様が頼みござる様なものを感っずるじゃないねと言うて話した事でしたがね。神様は皆さんに頼む様にしてです、その身から打ち込んだ信心をしてくれよっと言うておられるのです。だからその身から打ち込んだ信心というのは、その身から打ち込んで朝参りをするという様な事ではなくてです。その身から打ち込んで頂いた教えを行事抜くと言うことです、いうならば本当に学校に行っとると思うて。
 何年間もそれこそ私の知った人で明善校に8年間行った人がありました。ほうりゃもう4年生の時にゃもうひじに加えておちゃのんどる。久留米ですからね。それではねおかしいですよ。合楽におかげ頂きょってなら10年も信心させていただいてですね、いつまでも富貴自在のおかげが頂けんと言う事はおかしいですよ。と言う位な意気込みでまぁこの学校を皆さんが卒業される人地おかげを頂かにゃいかんですね。
   どうぞ。